研究ノートs1:「身体操作」について

 最も簡単で誰にでもでき、しかも効果的な「身体操作」があります。
 <力を入れる><力を抜く>です。
   「身体操作」はここを導入とするのがよいのではないのでしょうか。特に<力を抜く>は広く言われていることですから、自分の技とされている人も多いと思います。当会の経験によれば、<力を抜く>がうまく機能しないのは、力を抜き終わった状態から技を始め、相手に作用させるべきときに力が入ってしまっていることが多いからです。<力を抜く>を技法として使うならば、どうしても避けられない緊張や<力を入れ>てしまうことを、むしろ積極的に利用した方がよい結果が得られると思います。<力を抜く>ことそれ自体よりは、力が抜けてゆく過程におこる身体自体の微妙な変化を意識的に使うことができれば、そこはすでに「身体操作」の世界ではないでしょうか。
以下に、当会が考える「身体操作」の基盤をなしている「身体操作」について述べます。

(ア)意識を抜く
 〈意識を抜く〉を分かりやすい言葉で言えば「脱力」ということになろうかと思います。しかし、脱力と言ってしまうと微妙なニュアンスが逃げてしまいますし、発展性もありません。
 例えば、当会の技法の根幹である〈正中線を流す〉という感覚は、正中線にそって意識を抜く、というように感じられます(私には)。
 ですから、ここで言う〈意識を抜く〉とは、非常に局所的に脱力することを意味しています。
 拳を握り締めた場合、拳にも力が入りますが、腕全体、そして肩まで力が入ります。また、逆に腕の脱力といった場合、腕全体の力を抜いてしまいます。しかし、当会の身体操作では、拳や腕には緊張を残したまま、肩だけの脱力を必要とすることが多いのです。これはなかなか難しい操作です。ある部分だけを脱力するということが困難ですし、さらに困難なのが、拳の緊張を残して体幹部に近い肩だけを脱力するということです。
 人間にとって、拳という末端部だけや腕全体の力を抜くことは比較的やさしいのです。末端ほど操作しやすく、体幹部に近いほど操作しにくいのです。
 ですから、脱力という、いわば自然の動作ではなく、意識、つまり身体意識の操作として技法を確立すべきなのです。
 力を込めるという行為を注意深く観察すると、筋肉を締めてゆくとともに意識もそこにこめられてゆくことがわかります。その意識を逆に取り払ってしまうという操作になります。一瞬で抜いたり、ゆっくり抜いたりなどの速度も加味した意識操作の稽古が必要です。
 この意識操作に習熟すると、とくに緊張を与えなくとも弛緩の状態にもってゆくことができるようになります。座っているにせよ立っているにせよ、それらは筋肉を緊張させることで可能になっている状態ですので、その緊張を感じとって弛緩させることができるようになります。つまり〈流せる〉ようになります。

(イ)倒れる
 座技呼吸法や一教の場合、相手を倒すために上体は腰から折れてゆきます。この動作でもっともしてはならないことは、相手を押すということです。第三者から見れば、腰から上体を折るという動作に違いないために同じように見えますが、当会では、この動作を倒れるように、または床に向かって上体が落下してゆく、という意識でおこなっています。
〈意識を抜く〉のところでふれたように、座技にしろ立ち技にしろ、上体が直立しているのは、上体体幹部を支える筋肉が緊張しているからに他なりません。しかし、どの筋肉がどのように緊張しているかは、通常、意識にのぼることはありません。寝ているとき以外、人間の上体は常に直立しているために、その状態は呼吸と同じように無意識のうちに維持されています。
 甲野先生はこのような状態を〈オートマッチク〉状態とよび、いったん〈マニュアル〉化する必要性を説かれました。〈オートマッチク〉のままでは精妙な技を構成しないのです。
 この〈オートマッチク〉と〈マニュアル〉についてかんがえるとき、いつも思い出す興味深いエピソードがあります。「井桁崩し」を発表した『甦る古伝武術の術理(合気ニュース社)』から引いてみます。

《動物にしたってオットセイやアザラシの泳ぎはすごい技術ですよ。この話は養老先生との対談『古武術の発見』にも書きましたが、彼らの泳ぎは一種の伝統文化で、後天的に学んで身につけた技術なのです。ですから彼らは、動物園の浅いプールで育てられ、大きくなってから深い水の中に入れられると泳げずに溺れるそうです。
         (中略)
おもしろい話だと思いませんか。つまりアザラシの泳ぎは、その種が昔から受け継ぎ伝えてきた文化であり技術なのです。犬や猫は教えなくても泳げるのに、犬や猫よりはるかに水と親しいはずのアザラシがなぜ学ばないと泳げないのか。なにか妙な気がしますが、これには深い意味があるのです。
犬や猫にとって泳ぎはふだんの生活でそれほど必要ではありませんよね。まったく縁がないと言ってもいいと思います。ですから犬や猫にとっての泳ぎは、例えて言えば救命ボートのようなものではないでしょうか。とにかく溺れなければいいわけですから。そのために、もしもの時の泳ぎ方を本能に備えているわけです。しかし、本能にインプットできる動きはそう何種類もというわけにはいきませんから、犬は犬かきしかできないのだと思います。
しかし、アザラシなどはその体形からもわかるように、水中生活を前提としています。したがって、その泳ぎには非常に巧みな、そして状況に応じた幾種類ものバリエーションが要求されます。そうした複雑な技術は本能の中にはとても搭載しきれないでしょうから、後天的に学ばなければならないわけです。別の言い方をすれば、本能として決められていないから、自由な発達、多くの変化技が可能になったのではないでしょうか。》

 上体を〈倒れる〉、または落下するように操作できると非常に大きい効果が得られます。なぜなら身体のなかで一番重い頭部を含めた上体、たぶん体重の六割以上だと思いますが、それがふいに出現し、おおいかぶさってくるからです。
 この操作は、石を吊るしている一本の糸をふいに切るようにおこなわねばなりません。上体の直立を支えている筋肉を意識できればそのように動作することができます。まさに、その部分の〈意識を抜く〉のです。
 この操作をおこなう初期条件があります。
 上体の直立という言葉をつかってきましたが、厳密な意味で上体が床に対して直角であった場合、どんなに意識を抜いても倒れませんし、落下もしません。意識を抜いたときに倒れるための角度を持っている必要があります。また不必要な力はあらかじめ抜いておき、上体がまさに一本の糸で吊るされた石のような状態にしておきます。  その糸である筋肉の意識をふいに抜いたとき、上体は何の予備動作もなく相手にむかって落下するのです。力を込めるという動作はどんなに努力してもある時間を必要としますが、〈意識を抜く〉という操作は一瞬で完了するからです。

(ウ)伸筋
 当会で研究している技法で、筋肉を屈筋として使うことはありません。筋肉を意識的に使う場合、伸ばすように、伸筋として使います。
 脚‐腰の裏‐背中の筋肉を伸ばして立つと、それだけで、相手は触れたとたんに不安定になります。これは筋肉に「伸びる」という内容を与えているため、固定した筋肉に触れることを想定していた相手の予測を裏切っているからだと考えられます。
 ある合気・大東流の研究書に、伸筋を使うことが合気、と結論づけてありました。むろん早計であると思います。有効で不可欠の操作法ではありますが、あくまで合気技法を構成する要素のひとつにすぎません。
 注意すべきは伸筋の内容です。伸ばし方です。力を込めるときのように筋肉を伸ばしても有効な伸筋にはなりません。
 〈割れ〉のところで述べたように、その筋肉に〈流れ〉を意識しながら弛緩させることによって伸筋にすべきなのです。
 先に述べました脚‐腰の裏‐背中を伸筋にした場合、技法の修得が進みますと全身が吊られているような体感が生じてきますので、そのことを利用して、つまり吊られたまま弛緩させることで伸筋状態に移行できれば効果的です。
 この体感と深くかかわりますが、当会で研究する身体操作に〈アソビをとる〉というのがありますが、これも筋肉を強張らせても〈アソビをとった〉ことになりません。ゴムを伸ばすと硬い一本の糸になるように、筋肉を弛緩させ、〈流し〉、その操作の結果、硬くなり、〈アソビがとれる〉のです。


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