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研究ノートa4:合気道技法の設定と<合気>について

 当会では、腕の武術的操作を<かいな返し>という技法で稽古研究しておりますが、その過程で得た一番大きな成果は、この技法で、腕を取られる設定はもとより、身体を取られる設定も、離隔状態の設定にも対応できるということが確認できたことです。
 簡単に言えば、「片手取り」の技ができれば、それは「肩取り」の技ができたということであり、もっと簡単にすると「片手取り」と「肩取り」はまったく同じ<かいな返し>という身体操作で対応できるということです。

片手取り肩取り
 具体的に描写しますと、古い型を残している会派では、「肩取り一教技」でも、肩の操作だけを行うのではなく、その先にある腕をまさに、「かいなを返す」ように操作しますが、この手が「片手取り一教」の手だ、ということです。あの腕はあの肩と一体の腕であり、肩の動作の補助ではない、というのが当会の確認です。
 武術における身体操作ということを少し深く考えていれば別に驚くべきことではなかったのですが、当初、結びつくという発想は、正直ありませんでした。
 「片手取り」は相手に自分の手首を直接掴まれるという設定ですが、「肩取り」は身体部分であり、しかも稽古着の肩部分を掴まれる設定だからです。自分の手に直接触れている相手に、自分の手を操作し、影響を与えることは不思議でもなんでもありませんが、手ほど操作性のない肩部分の稽古着を掴んでいる、ということは、設定条件として大きく違いますので、同じ技法で対応できるとは考えもしませんでした。
 そして会のなかで稽古研究してゆくなかで、合気道技法のすべての設定(攻撃)はこの<かいな返し>という身体操作で対応できることが確認できました。
 ここで、合気道技法の設定を概観してみますと、資料『合気道の設定』のようにまとめることができます。

 徒手対徒手で、身体の自由を奪うために人間がとりうる様々な捕り方が考えられる限り設定されているといってよいと思います。合気道の乱取り法を工夫された富木謙治師範が「離隔状態」とよんだ間合いをとっての攻撃は、「正面打ち」、「横面打ち」、「突き」の三形態が設定されています。
 合気道技法全体をみわたすと、離隔状態はこの三種だけで、ほかは手や体の一部、または背後からそれらを取られたところから技を掛けるよう設定されています。このことから、合気道、そしてたぶん古流柔術なども同じでしょうが、掴まれてから動く稽古が多いので、近代的な格闘状態、直接に殴りかかってくるような状況には対応しにくいのではないか、やはり一時代前の武家社会の武術なのではないか、などの批判がありますが、それは的外れであり、なぜ掴まれてから動く稽古をするのかについてはすでに述べたので、繰り返しません。
 ただ、以上に関して、ここで述べておきたい当会の考えは、「正面打ち」は空手の手刀打ちではないし、「突き」も正拳突きではない、ということです。外見が似ていますので、いきおいその範を空手に見てしまいますが、もっと抽象度の高い動きだと思います。合気道も柔術も対空手を想定しているわけではありませんから。
 「正面打ち」、「横面打ち」、「突き」は、人間が離れた状態から行う攻撃の軌跡を抽象化したものと解釈するのがよいのではないでしょうか。
 この三種はひとつひとつが特徴的な軌跡をもっています。
 「正面打ち」は、空間を垂直に斬ります。「横面打ち」は、斜めにどこまでも追ってくる軌跡です。「突き」は、攻撃線として手元に伸びてきます。
 起源をもとめれば、やはり剣の動きであろうと思います。または短刀。むろん、武術的運動としての精度をあげてゆく必要はありますが、空手をまねて手刀や拳を鍛える必然性はないと考えます。
 これら三種の攻撃が要求しているのは、三つの軌跡全てに対応できるひとつの体捌きであろうと思います。想定される攻撃が「突き」ひとつであれば、身をくねらせ、上体だけをのけぞらせて避けることも可能で合理的ですが、それでは下半身が残り、「正面打ち」の軌跡に対応することができません。正中面や正中線を移動させる体捌きが求められているのです。具体的には、太刀取りを含む対武器技の成立を想定していると考えております。
 「両肩取り」や「後両手取り」などは、抑える側が自分の両手で相手を捕りますので、それ以上、打撃などの攻撃を加えることができませんので、ひとりが抑えに徹し、攻撃は別の人間が行うという二人掛けを本来は設定しているのではないかと思いますが、そこに飛躍するよりも、現在、当会を含めて多くの道場がおこなっているように一対一の稽古で、充分な武術的意味があると思います。
 どのような武術にも共通しているのではないかと思いますが、すぐれた動きのためには、末端ではなく体幹部の自由度、つまり正中線が機能をもつことが必須ですが、両手で自分の両手・両肩を抑えられる「両手取り」や「両肩取り」がその稽古にあたると考えられます。

 以上、設定(攻撃)について述べましたが、むろん合気道という技法は、これら個々の設定(攻撃)に、如何に<合気>を掛けるのかというところに成立しています。 当会も最初は、「正面打ち」に対する技を検討し、次に「片手持ち」の技の検討というように、設定別に検討していったのですが、結論から述べますと、しかもあくまで当会としての、現時点での結論ですが、「正面打ち」に対する<合気>、「片手取り」に対する<合気>、「肩取り」に対する<合気>という個別の技法としての<合気>はないと思います。
 「肩取り」の肩を沈める身体操作と<かいな返し>の肩が同じであるという気づきから展開させ、確認していったのですが、手を取られる設定群にも、体を取られる設定群にも、離隔状態の設定群にも、全てに同じひとつの技法 <かいな返し>で<合気>を掛けることが可能です。また武術的にもひとつの<合気>を多様に展開してゆくべきと考えます。
 たとえば「胸取り」などは、腕や肩からも離れた部位ですので、<かいな返し>とは無関係に見えますが、<かいな返し>そのものが、体幹部、つまり正中線の操作によって手を動かす身体操作技法ですから、なによりも胸部分こそが<かいな返し>のときに大きく操作される部位といえます。もともと一連の操作なのです。
 しかし、そうはいっても、現実の稽古では「片手取り」技より「胸取り」技が掛かりにくいのは事実です。やはり体幹部を操作するのはむずかしいのです。
 そのことから、様々な<合気>は技法の種類としてあるのではなく、難易度として区別すべき、と当会では考えます。「片手取り」の<合気>より「胸取り」の<合気>はむずかしい、というように。
 また、以上のべてきたことから理解できることですが、<かいな返し>は正中線の操作におおくを負っておりますので、そのことは当然身体の<割れ>があるということですし、どの技も<浮き>、がかかればその効果は格段にあがりますので、<かいな返し>といえどもそれらを複合して用いるべきであることは言うまでもありません。

 このようなことを観察してゆくと、理合からみた稽古の順序というものも見えてきます。「片手取り」の<合気>より「胸取り」の<合気>はむずかしいのですから、胸取り技法群は片手取り技法群のあとにおくべきでしょうし、離隔状態技法群は接触時間が短い片手取り技法と同じと考えることができますので、これも片手取り技法群の後となります。
 『合気道の設定』にはぶいた設定のひとつですが、受け取りが互いに同じ半身、右半身と右半身、左半身と左半身で片手をとる片手の「交差取り」は、「片手取り」と「正面打ち」の両方の性格をもっているので、片手取り技法群から離隔状態技法群にうつる橋渡しの位置にあると考えられます。
 ただ武術の修得は理合のみから計られるべきではありませんので、当会においても修得の階梯の一視点です。

 さて、小論で用いている<合気>という概念ですが、ここでは狭い意味での、技術的な<合気>を示しています。<合気>という言葉は、とても日本人の感性に合っているので、ある心的状態にも、宗教的な境地にも拡大できます。
 狭く限定してしまいますと、誤解や反論がどうしても生まれてしまいますが、さらに論旨を明快にするために恐れずに言い切ってしまいますと、狭い意味での技術的な<合気>とは、崩しのことに他なりません。
 ただし、この<合気>としての崩しは、生の力で引いたり押したりすることで作られる崩しではなく、我知らずにバランスを失っている状態、現在考えられる最も精妙な崩しを指しています。
 力ではない武術を真の武術と考えるならば、<合気>という言葉で表現されたこの技術はどうしても修得しなければならない技術です。
 むろん<合気>の技法は、日本の柔術やその他の武術のなかにも原理として内包されていたと思われますので、よく検討すれば<合気>と同じ技法を発見できると思います。
   さきに様々な設定にたいする<合気>という観点からのべましたが、<合気>という高度な崩しを掛けられますと、バランスを失った相手はおもわず力を抜いてしまったり、動きを自ら止めたり、相手を見失うなどの現象を呈します。
 これらの現象は、柔術としての投げや、剣術などの武器技、または武器取りなどの技となります。つまり、様々な位相でも<合気>というひとつの術理が多様な技に変化してゆくと考えられます。
 「一刀は万刀に化し、万刀は一刀に帰す」とは、小野派一刀流にある言葉ときいておりますが、理合を求めてゆけばその片鱗が垣間見えるかもしれません。
平成20年12月28日


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