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研究ノートa2:「体の転換」の意味

現在、標準的な合気道の稽古では、必ず最初に「体の転換」という動作を行います。

動きはとても簡単ですが、かなり抽象度の高い動作、つまり言い換えると何のための稽古なのかよく分からない運動ではないでしょうか。
 この「体の転換」に比べれば、これもまた標準的な稽古体系では必ず次に行う「立ち呼吸法」は、かなり分かりやすい基本動作です。諸手で押さえこまれたり捻られたりしている我が手を、上げたり解いたりするのですから、目的は手の使い方の養成であると誰でも理解することができます。したがって自分がどこまで上達したのかも自覚することができます。
 「体の転換」の意味がわかり難いのは、この動作に、合気道の技全体に通じる普遍性が外見的に見つけにくいからだと思われます。手の上げ下げはどの合気道技法にも必要ですが、「体の転換」のような動作からは裏技の体の開きが思い浮かぶぐらいです。
 裏技の体の開きのみを目的とした稽古なのでしょうか。
 合気道は大東流から工夫された技法体系ですが、現在、私が見聞したかぎりでは、大東流はこれほど「体の転換」をクローズアップしていないように思います。同じ言葉と類似の動作はあるのは確認しましたが、意味の付与の仕方やおもきのおき方が違うように思えます。
 合気道としての「体の転換」は合気道開祖独特の工夫であったと考えられます。つまり合気道を展開してゆくにあたって、是非とも必要な錬法であったのではないでしょうか。それが裏技のためだけの基本動作とは思えません。合気道技法全体を支える基本理念を孕んでいるはずです。であるからこそ稽古体系の冒頭に据え、後世の私たちも必ずここから稽古を始めるように設定したのではないでしょうか。

 ただ、開祖は技の分類や整理には積極的ではなかったそうです。また、動作に番号をつけたり、動きに号令をかけたりするのも戒めたともきいたことがあります。  現在のように稽古を体系づけたのは、開祖の周辺にいた初期の高弟の人たちだったのかもしれません。

 「体の転換」に潜む基本理念は何か。どのように稽古すべきなのか。
 「体の転換」も他の技と同じように、修得の度合いに応じて違った姿を見せるのでしょうから、現段階で、我々が持っている手掛かりをたよりに考え、稽古するほかありません。
 重要な手掛かりのひとつは「相手とぶつからないこと」という伝えです。さらに、「体の転換」は合気道技法全体に通底する理念を孕んでいるはず、という当会の解釈を重ねて考えてみます。

   全技法に共通にある動きで、しかもそれは、相手にぶつからずに体を開いてゆく動作、ということになれば、それは「一重身」になります。

   このように、当会では最初、体の転換を一重身の稽古ととらえることからスタートしました。体を開く方向に回転させているように見えますが、ほんとうは回転させていないのではないか。「一重身」であれば、むしろ回転をさせないところに体の転換の本質があります。回っているように見えるのに実体は回っていない。黒田鉄山先生のところに「回って回らず」という「輪の太刀」の理合がありますが、同じように言えるのではないかと思います。
 当会の考えるように「一重身」の稽古とすれば、稽古すべきは〈回らない腰〉です。または〈捻らない腰〉。そうすると、そのためには腰を充分に〈割る〉、ということが「体の転換」の稽古の最初の眼目になってきます。

 さて、〈回らず、捻らず〉の腰の代表的な稽古法は「前後斬り」です。欠かすことのできない重要な稽古のひとつですが、如何せん、ひとり稽古ですので、私たち普通の人間が陥りやすい、自分の感覚への埋没(稽古しているうちに自分の感覚を肯定してしまう)、という短所から逃れがたいところがあります。
 しかし「体の転換」として稽古するならば、その欠点をおぎなってあまりあるものがあります。
 相手があり、しかも手首を握られての稽古ですので、効果を客観的に確認でき、自分の感覚への埋没もありません。
 相手に手首を握ってもらい、「一重身」の身体操作の精度をあげてゆく。
 これほど優れた稽古法を、私はほかに知りません。この目的をもって「体の転換」の稽古をするならば、体が練られるにしたがって合気道技のみならず、あらゆる武術の技が上達してゆくことは保証されているといってよいでしょう。

 他武道の体系を正確に知らないので、強く断言することはできませんが、その体系の本質的な理合は、全く現実(格闘のスタイル)を模していない、だから何のための動作か分からないような単純な練法のなかに潜んでいるのかも知れません。
 同じことは、「なぜ手を掴むのか」でものべましたが、その単純な錬法に理合を発見することができれば、速く動く稽古をせずに〈速さ〉を得、重さの負荷をかけずに、〈力〉を得ることができるのです。ただその結果に得た〈速さ〉や〈力〉は、いわゆる速さや力ではないことはいうまでもありません。
 またそれは、体系全てを統括する原理であるはずですので、技Aを稽古することが同時に技B、技Cの上達を導くことに直結しているはずです。
 合気道の体系を例にあげますと、抑え技の一教を稽古することが、投げ技の小手返し呼吸投げを稽古することであり、剣術や、さらに、太刀取りなど武器取りの体捌きの本質を磨くことになっているはずです。

 このように考えると、膨大な体系を修得する手掛かりになると思います。

 このことを別の面からかんがえますと、問題があります。技法の修得で手いっぱいである我々が担うべき問題ではないと思いますが、以上のような体系化が、多くの天才的な武術家にかぎらず、指導者がおちいる陥穽ではないのでしょうか。
 誤りとはいえませんが、単純なものにまとめる過程が残っていないので、その意味が分からなくなってしまう、ということです。優れた才能をもっている指導者ほど、本質を単純にまとめるような気がします。単純なものほど、意味が分からなくなります。それは、それを創造した指導者の生存中にさえおこります。
そこをどうするか。技法の本質をどう伝承してゆくか。
 どんなに記録の媒体が発達しても不可能なのかも知れません。だいたい、冗談のような話ですが、デジタルな記録装置は精密にはなりますが次々に変化してゆくので、数年前の媒体を再生できなくなることが、個人レベルでは普通におこっています。8ミリビデオやDVD、FDは、古文書や遺跡から発掘される紙や石の記録ほどに、我々の記録を未来まではこぶ力があるとはとても思えません。

 「体の転換」が稽古体系の冒頭に据えられている所以と思われるところについて当会の考えをのべました。
 (現在は以上の理合に<かいな返し>の技法を加味して「体の転換」の稽古をおこなっております。)
 
平成20年11月15日
                                 


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